羅須地人鉄道協会とは |
羅須地人鉄道協会
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羅須地人鉄道協会(らすちじん てつどうきょうかい RASS)は、軌間※12フィート(610mm)の軽便鉄道車輌、とくに蒸気機関車を動態保存し、その車輌を走らせる軽便鉄道※2を建設することを目的に、昭和48年(1973年)4月に結成された鉄道愛好者の団体です。
私たち愛好者が夢見る蒸気機関車の走る軽便鉄道は、とうの昔に消滅してしまいましたが、軽便鉄道が織りなす鉄道情景の数々は、残された写真等の記録を通じて私たちの心の中に生き続けています。それはなにか人間臭く、また自然と文明とがしっくりと調和している、心和むあたたかい情景であると、私達は感じています。そして私たちは昔から「軽便蒸気機関車の走る鉄道情景を再現してみたい」「そんな鉄道を作ることはできないだろうか」と話し合ってきました。
現に、欧米には鉄道愛好者のボランティア活動で、古い蒸気機関車を動態保存して走らせている『保存鉄道』が昔から数多く存在します。「日本でもできないはずがない」「まだ東南アジアや南米などに軽便蒸気機関車が残っているうちに行動しなければ手遅れになってしまう」と、私たちが活動を開始したのは、昭和48年(1973年)春のことでした。
因に会の名称の『羅須地人』は宮沢賢治が主宰した農民芸術活動団体『羅須地人協会』から拝借したもの。「ともに汗を流しながら、自分たちが美しいと思うものの表現あるいは実現を目指して活動していこう」というのが会創立の精神ですが、これは宮沢賢治の農民芸術運動の精神に影響されるところ大といっていいでしょう。
※1 軌間:鉄道の線路のレールとレールの間隔のこと。JRなど日本の鉄道のほとんどは3フィート6インチ(1067mm)を採用している。新幹線や一部私鉄は4フィート81/2インチ(1435mm)。また、日本の軽便鉄道や森林鉄道などは2フィート6インチ(762mm)のものが多かった。※2 軽便鉄道:規格の低い簡易な鉄道。明治期から建設が進み、大正期の「軽便鉄道法」施行により昭和初期にかけて日本各地に数多く建設された。建設費・維持費を下げるため、簡易な軌道に小型軽量な車輌を使っていたため、輸送量としては決して大きくないが、馬車、川船などに頼っていた当時の輸送状況からすると、大きな改善となり、地域発展に大きく寄与した。しかし自動車などの発達により昭和30年代から50年代にかけてそのほとんどが消えていった。
活動を開始した頃、私たちの手元には1輌の蒸気機関車がありました。私たちの会の前身である全日本小型機関車研究会が台湾の基隆炭鉱から入手した軌間2フィート、重量僅か3.5トンの小さな蒸気機関車(3号機)です。当時新潟県糸魚川市にあった東洋活性白土株式会社という工場の専用線が軌間2フィートであったことから、同社にお願いしてそこに留置していましたが、まずこの機関車の保守・整備と同専用線での運転活動に着手いたしました。
同時に東京都町田市のさる地主さんのご理解を得て、多摩の丘陵地帯にほんの150m程度ではありますが、テスト線を自分たちの手で敷設しました。愛好者の団体ですから資金が豊富にあるわけでもなく、レールや枕木は中古品を安価で入手しなければなりません。専門の工具も必要。まったくの素人ですから線路を敷くのも最初のうちは試行錯誤の連続でした。しかし、このテスト線の敷設活動を通じて、私たちは鉄道というものの『姿』を『体』で理解するようになったのです。また、「2フィートの軽便鉄道なら自分たちの手でつくりあげることが可能だ」と実感し、以後の活動への自信と決意を深めることになりました。
3号機以外の車輌についても、やはり全日本小型機関車研究会が入手していた元頸城鉄道のラッセル車を小田急大野工場で軌間を元の2フィート6インチ(762mm)から2フィート(610mm)に改軌して東洋活性白土専用線に入線させたり、建設省が河川改良工事に使用していた小型のディーゼル機関車(4号機)、それに工事用のトロッコを入手するなど、少しづつ増強を開始しています。
会を設立して3年目、昭和50年(1975年)に入ると、前述の糸魚川市・東洋活性白土専用線を舞台に活動は急展開していきます。同社のご理解を得て、工場内の空き地に車輌留置用の線路を新設できることになったのです。
もちろん敷設工事はすべて自分たちの手で行いました。昭和50年に側線を一本、さらに昭和53年には機関庫の建設の許可を得て、まず建設予定地までの分岐(ポイント)と線路の敷設を開始しています。機関庫は昭和54年に基礎工事に着手し、昭和55年に竣工しました。アングル材を主体とし、上屋はスレートを使った簡易建築とはいえ、足元を見れば車輌整備用のピットも備えたもので、この建築作業もほとんどが会員の手によるものです。
施設に関していえば、『憧れの鉄道情景』を実現すべく、昭和55年には構内に昔なつかしい腕木式信号機を設置しています。これは当時廃止になった石川県の軽便鉄道・尾小屋鉄道から購入したものです。
と同時に、車輌の増強を図り、昭和53年(1978年)には台湾・基隆炭鉱から2輌の蒸気機関車と1輌分の部品を購入。うち6号機は会員を中心にレストアを施し、翌昭和54年(1979年)には糸魚川専用線での運転を開始しました。その他、日本海博で使われた遊園地風の遊覧客車2輌、ディーゼル機関車1輌(5号機)、トロッコ数輌と増えていきました。
この糸魚川専用線では、東洋活性白土株式会社のご理解を得て、毎年五月のゴールデンウィークに一般公開の『運転会』を開催しました。この行事は新聞、テレビなどで度々取り上げられ、鉄道マニアのみならず全国的にも有名になりましたが、なかでも糸魚川市民の皆さんに喜んでいただけたのは私たちにとっても大変嬉しいことでした。無料ということもあって乗降場には多くの市民の方々が行列し、遊覧客車に乗車した親子連れの方々から「毎年楽しみにしているのよ」と声をかけられるたびに、私たちの活動が一般市民の方々にも少しづつ理解されてきているという感を深くし、単なる『マニアの自己満足』には終わっていないことに自信を深めもしたのです。
幅の広い活動を目指して
糸魚川での順調な活動の一方で、昭和51年(1976年)には理想とする鉄道の建設を目指して新たなプロジェクトに着手しています。これはさる大手不動産会社とタイアップして、信州・蓼科高原の別荘地に蒸気機関車の走る軽便鉄道を建設しようというものでした。現地調査まで行いましたが、残念ながら条件等で不動産会社側と条件の一致をみず、また私たちもまだ力不足ということもあり、このプロジェクトは途中で中止することになりました。しかし日本で一、二を争う不動産会社から声がかかったという事実は、将来に望みを持たせるに充分な出来事で、私たちは会の活動のさらなる充実を目指すことになったのです。
そのひとつが、車輌を整備、あるいは新製する『ワークス』を首都圏に設けることでした。会員の殆どが首都圏在住のため、毎週末に活動できる拠点が必要と考えたわけです。第一期のワークスは千葉県柏市に建設、昭和53年暮から昭和57年夏まで、ここで車輌関係の作業が行われました。この建設作業ももちろん会員の手になるものです。
そして、ワークスができれば次は蒸気機関車の自製です。手頃な竪型ボイラーと蒸気エンジンを入手した私たちは昭和55年から56年にかけて、この柏ワークスで初めての蒸気機関車の新製作業を行い、昭和56年(1981年)5月の糸魚川運転会では見事自走に成功、12号(のちに2号機と改番)『インジャン・ジョー』と命名しました。小型ながら自分たちの手で蒸気機関車を作れたことが大きな自信となったことはいうまでもありません。
こうして私たちの活動は順調に発展していきましたが、昭和56年夏から昭和57年夏にかけて、思いもかけなかった苦境を迎えることになりました。
ひとつは『神戸ポートピア問題』です。
ポートピアは昭和56年3月から9月まで開催され、私たちは先方からの申し出を受けて3号機と6号機の2輌の蒸気機関車を貸し出しました。その賃貸料が活動資金としてありがたかったうえに、会期終了後は2輌をピカピカに整備して返す、なおかつ入手が難しくなってきたレールと枕木を会期終了後譲ってくれるという点が魅力だったからです。我が子ともいうべき2輌の機関車に“晴れ舞台”を踏ませてやりたいという気持ちもありました。
ところが、会期が終わってみると、博覧会側は酷使されて傷んだ機関車をろくな整備もせずに返却し、あとはナシのつぶて。結局、私たちは司法の場で事の理非を争いましたが、古い蒸気機関車を保守し動態保存していくのがいかに大変なことであるかを裁判官には理解してもらえず、和解勧告をお断りして訴訟をすすめましたところ、残念ながら敗訴に終わりました。「契約の際に、もっと慎重に事を運ぶべきであった」−いろいろな意味でこの失敗は高くつきましたが、社会的な活動を行っていくうえでのいい勉強になったことも事実です。
もうひとつは、お世話になっていた糸魚川の東洋活性白土株式会社が経営上の問題から解散することになり、昭和57年10月をもって専用線が廃止されたことです。車輌を保存・運転する場を無くし、汗水流してつくりあげた機関庫や線路などを解体・撤去せざるをえなくなったのは、会にとって大きな痛手でした。
同年10月10日の盛大な『お別れ運転会』をもって彼地での活動を終えた私たちは、整然と撤退作業をすすめ、悄然として糸魚川を去り、しかし心機一転して新たな活動を模索していくことになりました。
次の活動拠点を見つける−これが糸魚川撤退後の最大の課題でした。私たちは手分けして各地の自治体や鉄道廃線跡地などをまわり始めました。
車両についても増備はおさおさ怠りなく、ディーゼル機関車を新たに建設省・立山砂防工事軌道から3輌入手したほか、昭和58年(1983年)には蒸気機関車を1輌新製しました。11号機(のちに1号機と改番)、通称マフ・ポッター号で、これは小田急電鉄が運営する富士山麓の自然遊園『花鳥山脈』に搬入され、同社とタイアップして昭和59年から7年間、毎年ゴールデン・ウィークに私たちの手で運転活動を行いました。糸魚川のときと同様、ほんものの蒸気機関車はここでもなかなかの人気者となりました。
また、地主の都合で閉鎖することになった柏ワークスにかわって、神奈川県相模湖町に仮ワークスを開設。糸魚川から撤退した後、休車状態になっている車輌の整備活動を行いました。
平成5年(1993年)暮から、私たちは新しいプロジェクトに取り組んでいます。千葉県香取郡下総町の「成田ゆめ牧場(秋葉牧場)」の社長さんのご理解を得て、同牧場に会員の手により線路の敷設を開始したのです。同時に、糸魚川撤退後、各地に分散させて保管していた車輌、レールや枕木といった資材を搬入し、このゆめ牧場に集結させつつあります。自分たちの手でレールを敷設するのですから、簡単にはいきませんが、月に最低4日は活動を行い(基本的には第二・第四の土曜日曜)、着々とレールは伸びています。平成8年春にはまず「まきば線」(全長500mのエンドレス)が完成しましたが、将来的には今後建設に着手する林場線と合わせて、総延長2キロの敷設などを計画しています。また、動力車を収容する機関庫の建設も着々と進んでいます。
また、「成田ゆめ牧場」に協力して、ゴールデン・ウィーク、夏休み、秋の休日に蒸気機関車の営業運転を行っています。使用機関車は1号機と3号機です。
現在、会の活動は数名の幹事団を中心に運営されていますが、会員数は正会員に名誉会員、賛助会員、会友を加えて約50名。サラリーマンを中心に、歯科医、大学講師、高校教諭、医師、エンジニア、写真家、自営業、現職の鉄道マン、主婦、学生と多岐にわたり、年齢も上は50歳代から下は10代後半まで、幅の広い会員構成となっています。そしてその殆どが20年以上の会員歴を持ち、熱い連帯感で結ばれているのが特徴といってよいでしょう。なお、会友にはメンバーの子弟も含まれています。
また、数名の会員が2級ボイラー技士免許を取得。本職の鉄道マンや鉄工作業のプロ、自動車整備士等の専門家がいるのも活動の大きな助けとなっています。
このようなクラブですから、頭でっかちの人、書斎派的な人にとっては、けっして住み心地のいい会ではないでしょう。とにかく仲間と「協調」しながら身体を動かして「活動」に参加していくことが会員の第一条件です。つまり「正会員」は仲間と協力しあいながら常に前向きに活動に取り組まなければならないという大きな義務を持つことになります。とくにリーダークラスになりますと責任も重く、所謂『noblesse
oblige』が厳しく求められることになります。
入会希望者は、まず何度か私達の活動に参加していただくことにしています。そのうえで、一緒にやっていける、やっていきたいと判断した時点で、幹事会の承認を得て、「賛助会員」となっていただきます。原則としては一年間、この「賛助会員」の資格で活動に参加してもらったうえで、「正会員」に昇格するか、あるいは「賛助会員」のまま、時折活動に参加するか、「会友」として精神的に会をバックアップしていくのか、幹事会とご本人の話し合いの上で決めることになっています。
機関車を整備し、新製することが活動の中心となりますので、基本的にはメカニック主体の会ですが、線路の敷設や保線には大きな労力が必要ですので、体力派の「土方」タイプも大歓迎。日曜大工の得意な人は存分に実力を発揮できますし、「体力」はなくても、線路の草むしりなどの軽作業もたくさんあります。つまりは、入会した会員は会の運営に貢献できるそれぞれの得意分野を見つけて、活動していくことになります。
なお、会の規約では「正会員」のみ、年1万2千円の会費を納めることになっています。また、ゆめ牧場での活動参加者(但し社会人のみ)は活動日ごとに1口千円以上のカンパをするということで、財政的な基盤を固めています。というよりも、活動を一生懸命する人ほど、自身の持ち出しが多くなるのが現実です。つまり自分が担当している車輌の塗料などは自分の財布から金を出して買ってくる、というようなことがままあります。もちろん、規定のカンパ以上のものは無理に負担しなくても結構。つまりは、全体の調和と規律、モラルに反しないかぎり、自由に、フレキシブルにやりたいことをやる、というのが私たちの原則です。この会で何を得るかは、参加者ひとりひとりの努力による、ということをご理解ください。
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