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5月活動日誌特別編
   6号機が再び走るまで
羅須地人鉄道協会 
事務局長 相場二郎

 
ご注意
今回の特別編にはいつもの活動日誌とは比べ物にならないほど、
事務局長の個人的な独断、偏見、思い込みが
大量に含まれているものと思われます。

また、事務局長の思い違い、勘違い、自己中心的解釈などにより
もしかしたら事実と違う部分があるかもしれません。

その点にご配慮の上お読みください。

なお、事実誤認に付きましてはご指摘いただきましたら
直ちに修正の用意がありますので
事務局長までご連絡いただければ幸いです。


2000年5月4日午後9時50分、復活した6号機とその仲間たち


 



 

・5月4日午後9時41分…
「ぴぃぃぃーっ!」
6号機の甲高い汽笛の音がまきば線に響く。

代表の角田氏が6号機のレギュレター(スロットルバルブ)をゆっくりと開ける…。
 

6号機復活運転の瞬間
シリンダーのドレンバルブから勢いよくドレンが吹き出す。やがて真っ白な蒸気となって6号機の真っ赤なボディを包み込んでいく。

角田氏もキャブ(運転台)から上半身を乗り出しシリンダー部をのぞきこんでいる。まだ、組み上げたばかりのロッドが渋いのか、それともどこかのパッキンが漏れているのか、6号機はなかなか動き出さない。

しかしドレンバルブからの蒸気が6号機にいっそう白くまとわりついたかと思うと、いよいよ6号機の動輪がじわりじわりと転がりはじめた…。

その瞬間、角田氏はキャブから身を乗り出したままガッツポーズを取った。
まわりを囲むメンバーたちからは歓声と拍手が沸き起こった。
それはもはや日もとっぷりと暮れた2000年5月4日午後9時41分のことだった。

庫線部分をほんの数メーターの走行だった。しかし糸魚川撤退のさよなら運転から数えて18年ぶり、その後の整備着手前の調整運転から数えても17年ぶりの走行である。

その間、6号機を取り巻く環境は激変した。糸魚川からの撤退、長い流浪の日々、そしてゆめ牧場でのまきば線建設。しかし、その間もやがて訪れるであろう復活を信じて、毎年のボイラー検査だけは決して途切れさせることはなかった。

そして4年前、ようやくまきば線に搬入された6号機は、長い流浪生活の間に、足回りも外され、塗装は剥げ、あちこち錆びだらけの姿となっていた。


「とうとう動いた!」

その6号機が角田氏を乗せ、杉氏の、永沢氏の、塚本氏の、そしてレストアに立ち会った多くのメンバーたちの目の前を、ゆっくりと走っていく。

…ぼくらの前に、あの「6号機」が帰ってきた。
 

・前日まで
クラブハウスに常備されている「羅須日誌」をひもとくと、6号機レストア作業に着手したのはちょうど1年半前の1998年12月7日にさかのぼる。
修正のため動輪を小田急電鉄大野工場に搬出したことがその日の「羅須日誌」に記されている。
当時はまきば線での初の新製車両であるフラットカーの製造が第一で、6号機のレストアの動きは遅々たるものだった。1999年春になり、キャブや配管、ボイラーが取り除かれ、台枠が作業用台車に載るが、それはまだ「解体作業」の域を出ていなかった。
そして、ばらばらになった6号機を見て、多くのメンバーは実際に走るようになるのは「まだまだ先だな」と思ったに違いない。なにせ6号機はほんとうに「ばらばら」だったのだから。

その後少しずつ作業は進むが、その作業が加速し始めたのは、1999年秋ころからであった。永らく外されたままだった動輪がとうとう台枠にはまり、ボイラーの水圧検査も無事終了となったのが9月、11月に入り、水タンク、ボイラーが台枠に載るころになると、「6号機」は俄然「きしゃ」らしくなってきた。その後羅須の誇る技術陣の角田・塚本両氏を中心として、3号機の問題点を生かした改良も施されつつ、6号機のレストアは進んでいく。
しかし、この段階でも翌年の5月には走れるようになるとは当時誰も思わなかっただろう、おそらくこの2人を除いては。

2000年になり、6号機のかたちがどんどん見えてくるにつれ、多くのメンバーが、「ひょっとして6号機は5月には走れるようになるのでは」と思いはじめていた。だが、レストア作業の中心的メンバーのひとり塚本氏にその問いをぶつけても、彼はいつもの調子で「ん? 走んないかもよ」といつものとおりそっけなく答えるだけだった。しかし、羅須のメンバーの中で、この5月の連休での復活に一番こだわっていたのは、実は彼だったかもしれない。

実際4月に入ってからのレストア作業の進捗には目を見張るものがあった。3月末の段階で、6号機にはキャブはまだ載っておらず、塗装も下地が塗り終わっているだけだった。傍目にはまだまだ時間がかかりそうに見えたのである。事実、作業の進捗を見続けてきた事務局長でさえ、5月の復活の可能性はそれ程高くないと思っていた。

しかし、その後6号機は着実に組みあがっていった。他のメンバーの、連休に間に合うかの問いに対しては、相変わらず「間に合わないかもよ」とそっけなく答えていたが、塚本氏の頭の中には5月の連休に向けた段取りがしっかりと組まれていたのであろう。
 

ドレンバルブの梃子
そしてもちろん、塚本氏は短期間で仕上げるからといって妥協をすることもなかった。たとえばドレンバルブの梃子、たとえばブロワーパイプの煙室への取付金具。まるでフライス加工したかのような、まるで鋳物を鋳いたような、数々の美しい小物パーツが彼の手によって製作された。
また、今回の6号機にはフタル酸系の塗料が使用されている。仕上がりは美しくなるが、取り扱いや塗装技術はより高度なものが要求され、また乾燥のための養生期間も長くなる。しかし、その仕上がりの美しさの為、あえて彼は困難な選択したのである。
そして今回の復活にあたり、煙突も加工されている。従来の煙突はキャブの高さとの関係がアンバランスな印象を与えていた。ただ走らせることのみを考えているのであれば、「そんなこと」は後回しにすべきなのかもしれないが、それもきちんとしかも絶妙のタイミングで「格好よく」された。

角田氏も負けてはいない。4月に入りキャブやケーシング(ボイラーのカバー)が付くと、つづいて蒸気配管の作業に取り掛かった。ただ繋がってればいいというものではない。いかに「格好良く」配管するか。日が落ちてあたりはすっかり暗くなった機関庫で、アセチレンバーナーを手に真鍮パイプをなんどもなんども修正しながら曲げていた姿が印象に残る。

角田、塚本の両氏は、6号機のレストアが進むにつれ、通常の活動日以外でもまきば線に現れることが多くなった。べつに誰かと約束したわけではない。「その日」までに完成させなければならない義務があるわけでもない。
しかし「5月」というのはひとつの目標として常に彼らの頭の片隅にあったと思う。

そして5月3日、最後の追い込みが始まった。


ブロワーパイプの取付金具
・5月3日
復活の前日、5月3日。6号機はまだ組みあがっていなかった。
3日の未明にまきば線に到着した塚本氏は、朝の作業開始時に、手に鉄製の小さな「箱」のようなものを持っていた。

嬉しそうに開閉を繰り返す
「ほ〜、スゴイね、これは!」
角田氏から驚きの声が上がる。
その「小箱」は6号機の軸箱用の油つぼだというのだ。しかし、その「小箱」はまるで鋳物のような美しい曲線の取っ手と蝶番をもっており、しかもすべて溶接と削り出しでできているのであった。
「よくむかしの歯医者さんにこういう脱脂綿入れあったよね」
歯科医が本業の角田氏は、そう言いながら嬉しそうにふたを開け閉めしていた。
浜松から駆けつけた「とっちゃん」こと山口B氏ともに作業もパワーアップする。山口氏は糸魚川時代から角田・塚本両氏とともに羅須技術陣の一角を占めており、今回の6号機レストア作業にも遠隔地在住というハンディを乗り越え、たびたび参加してきた。
その山口氏は言う。
「二人(角田・塚本)とも、もう素人の域を越えちゃってるね。しかも細工が泣かせるよね!」
糸魚川時代からずっと一緒に汽車をいじりつづけてきた彼は、二人の加工技術の高さもさる事ながら、ちょっとしたパーツに込められた細工に感動したという。

塚本氏と山口氏
そのまま3日は潤滑系統の配管や蒸気配管、キャブ内の工作が行われた。例の「小箱」も新設された給油管に接続された。
そしていよいよ5月4日を迎える…。


取り付けられた油つぼや配管

・5月4日
5月4日の朝は快晴だった。
そして角田氏・塚本氏は朝から6号機に取り付き、最終整備を行っていた。そう、昨日までの作業で、全ての部品は取り付けられ、いよいよ今日、ボイラーに火を入れてみることになったのである。

角田氏は蒸気機関車の営業運転のため、ときおり作業を中断して、3号機やポッター号のレギュレターを握らなければならなかったが、その間も塚本氏は最終調整を続けた。

角田氏は機関庫の横を通るたびに
「つかちゃ〜ん(塚本氏)、まだ〜?」
と、営業列車を牽引する3号機のキャブから問い掛けた。


準備作業は続く

午後3時過ぎ、塚本氏から周りにいるメンバーに声がかかる。
「おーい、ちょっと押してくれぇ!」
機関庫の奥にいた6号機を、いよいよ機関庫の外に出そうというのである。

まだまだメタルが馴染んでいないのか、それとも油が回り切っていないのか、転がりがとても重い。庫の土間コン部分を抜け、カーブにかかると、ちょっと線路が上っているせいもあり、それ以上前に進まなくなる。しかし煙突は機関庫の屋根の外だ。
 

午後4時、給水が始まる
午後4時、ボイラーに水道のホースが突っ込まれた。注水が始まる。準備は着々と進む。

その頃、突如として天気が崩れ、どしゃ降りの雨となる。ゆめ牧場内にいたお客さんたちがいっせいに屋根の下に駆け込む。しかし、ゆめ牧場には悪いが、この雨は天佑であった。雨のせいでお客さんはすっかりいなくなってしまったのである。そして5時を過ぎるころには雨は止み、青空までもが見え始めてきた。天気も6号機復活の手助けをしてくれたようである。
こうなれば線路はわれわれの使い放題だ。
 

営業運転を切り上げ、戻ってきていた3号機で、6号機をもう少し前に引き出す。重連運転のように見えるが、6号機は残念ながら無動力である。

しかし、ここまでくれば糸魚川の運転会以来の3号6号の重連運転も近い。


3号機で機関庫の前に引き出す

午後6時11分、6号機の
ボイラーに火が入る
そしていよいよ「火入れ」である。すでに焚き口の中には薪がくべられている。灯油を染み込ませたウエス(ぼろきれ)にライターで火をつける。

午後6時11分、17年ぶりに6号機に火が宿る。煙突から「けむり」がたなびきはじめ、6号機はふたたび温もりを取り戻しはじめた。
 
 


17年ぶりの「炎」
6号機には糸魚川時代から語り継がれた「伝説」があった。
曰く、けむりが焚き口からキャブ内に逆流してくる、
曰く、3号機はすぐに昇圧するのに、6号機はさっぱり圧が上がらない、
曰く、6号機は缶焚き泣かせの機関車だ、などなど。
実際、ボイラーの煙管、つまり焚き口からの燃焼ガスの通り道の構造が、6号はちょっと変わっている。3号機に比べ、途中で細くなっているのである。なんのためにそんな構造になっているのかは不明だが、燃焼のための通風が、3号機よりも悪いのは事実である。

その「伝説」はやはり生きていた。
焚き口の火がなかなかうまく燃えてくれないのである。
もちろん久しぶりの火入れということもあり、ボイラー全体があったまっていくようにゆっくりと焚かれていたせいもある。あたりはすっかり暗くなってしまった。
 

クラブハウスでは野筵坊も開店し、夕食が始まる。機関庫の隣では、ポッターになべトロが連結され、ポッターの蒸気でなべ風呂が沸かされる。

しかし角田氏・塚本氏をはじめとする数人のメンバーは、まだ作業着のまま、6号機をはじめとする機関車たちの周りにいた。
彼らは火の世話や、部品の整備などに余念が無い。
 

昇圧までの間、まきば線ポストカードの首謀者でもある高橋氏が工事用投光器を持ち出し、機関庫前を照らしはじめる。夜の闇の中に2両の蒸気機関車が浮かび上がる。

会の創設者のひとりでもある杉氏や、そのほかのメンバーももカメラを持ち出す。
夜間撮影会が始まる。
 

午後9時過ぎ、6号機の安全弁から蒸気が漏れはじめる。安全弁の微調整が行われる。

 


クラブハウスでくつろいでいたいたメンバーたちも機関庫前に集まってくる。
午後9時20分、圧力計の針が最大使用圧力の6.0kg/cm^2(0.6パスカル)を指す。いよいよ6号が動く時がやってきた。
 


メンバーみんなに促されるようにして
角田氏が6号のキャブの機関士席に腰を下ろす。

汽笛のレバーを引く。
「ぴぃぃぃーっ!」
6号機の甲高い汽笛の音がまきば線に響く。

代表の角田氏が6号機のレギュレター(スロットルバルブ)をゆっくりと開ける…。

そしてゆめは現実になった…。



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